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Den-en Eda Church

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あなたは、キリスト教についてどんな印象をお持ちでしょうか。よく言われることは「キリスト教はイエス・キリストという人が示した”愛の行ない”の教えだ。それを書いてあるのが聖書だ。」というようなことでしょう。これらのことは必ずしも間違いではありませんが、本当に大事なことは少し違うのです。

1.愛は 行う前に まず 自分が信じるもの・感じるもの・受けるもの。

聖書という本がありますね。一体何が書いてあるのでしょうか。ひとことで言うと「神さまは私たちを愛して下さっている」ということです。この世を創った神さまがきっとある。私たち一人一人の命を創った神さまが必ずおられる。そして、神さまは私たちを作りっぱなしにはされていない。一人一人を愛して下さっている。そういうことが書いてあります。「旧約聖書」といわれる前半では、ユダヤ民族の苦難の歴史の中で、結局神さまがどのように大きな愛を示されてきたかが書いてあります。また、後半の「新約聖書」といわれる部分では、イエスという人の生き方・死に方・復活のされ方に神さまの愛が決定的に示されているということが書かれています。

ここで、神さまの愛 、愛と言っていますが、特に日本では「愛」という言葉は「恋愛」のイメージもあり、ぴんと来にくいかも知れません。聖書では、神さまの愛を、親の愛にたとえています。出来の悪い子でも親は子をとことん大切にしますよね。神さまの愛も同じなのです。ただ、人間の親の愛よりもっと大きく永遠だというのです。

クリスチャンは、まず、このことを信じています。私たちは自分がイヤになることもあるし、もがき苦しむこともありますよね。そんな私たちですが、神さまは、私たち自身では気がつかないくらい大きな愛を下さっている。このことを聖書を通じて知った時、私たちは 変わる のです。私たちの人生は活き活きしたものに変わるのです。その結果、人に対しても「愛の行ない」のようなことをしたくなることもあるでしょう。しかし、それは神さまの愛を信じた結果です。だからキリスト教は「愛の行ないの教え」とはちょっと違います。「神さまの愛」そのものを教えているのです。あとは、それを信じるかどうかです。

2.どうして神さまの愛を信じられるのでしょうか。

人によっても違うかもしれません。でも、クリスチャンに共通なことは、聖書の中に出てくる、神さまを信じて生きた人たちに、聖書の中で出会っているということでしょう。聖書には、悩み苦しみ、神さまなどいないと疑いたくなる辛い経験をしながらも、結局、何かのことで神さまの愛を信じ、変えられていった人たちが多く登場します。私たちクリスチャンは、そのような聖書の中の人間に自分の姿を映し、同じように信じたのです。

また、クリスチャンには、神さまの愛を信じるきっかけとなった出来事があった人も多いのです。それは必ずしも奇跡のようなことではなく、人生の中ではよくある出来事だったかもしれませんが、そのことに何故か神さまの愛を強く感じた、そう言われる方がよくいます。それは、神さまがその出来事を通じて本当にその人に働き掛けられたからなのでしょうね。

3.イエス・キリストという人は誰?

聖書によると、イエスという人はユダヤのベツレヘムで生まれ、同じくユダヤの北のはずれのナザレの村で育った人ですが、30歳くらいの時神さまからの特別の使命を感じて、「神さまの愛を信じて、悔い改め、新しい生き方をしよう」と呼び掛けながら、特に病気の人、罪の意識に悩む人と共に生きた人です。古い慣行に囚われ社会を支配していたユダヤ教組織からはその権威を脅かすものと見なされ、結局、イエスは逮捕され、十字架で刑死します。

しかし、イエスに着き従っていた弟子たちは、その後、クリスチャンと呼ばれ、共通の信仰に生きる人たちになります。その人たちが、自分たちの信じたことを新約聖書の形で書き残すのですが、それによると、彼らはイエスと言う人の中に神さまを見たというのです。病気や罪の意識に悩む人と共に生きたイエスに神さまの愛を見ました。そして、自ら進んで十字架の道を歩んだイエスの姿に、私たちの弱さや罪の心を私たちの代わりに抱えて十字架に着いてくださったという、人間には出来ない犠牲の愛を見ました。そして、彼らはイエスの刑死の3日目の日曜日の朝、一生忘れられない、魂を揺さぶられる体験をします。彼らは、神さまがイエスを復活させ、その不思議な姿を彼らに現して下さったのに出会ったのです。彼らはここに神さまの大きな愛の力を見ました。神さまの愛は死も乗り越え、永遠に私たちと共にあることを見たのです。

その後、イエスは「救い主」の意味の「キリスト」をつけて「イエス・キリスト」と呼ばれるようになります。キリスト教は「イエス・キリストの残した教え」ではありません。弟子たちと同じようにイエス・キリストの中に神を見、イエス・キリストそのものを信じる信仰がキリスト教なのです。だから、イエスはキリスト教の教祖ではありません。キリスト教を最初に信じたのは弟子たちです。そして、弟子たちの信じたものはイエス・キリストそのものだったのです。 

今、クリスチャンは、復活したイエス・キリストが今でも私たちと一緒にいて下さっていると信じています。私たちは弱く小さい者かも知れませんが、神さまは、イエス・キリストを信じる私たちをそのままで愛して下さっていると信じられるのです。 

4.教会はどういう所? 礼拝とは何?


信じた弟子たちはクリスチャンと言われる仲間になりました。イエスが復活した記念の日である日曜日に集まって一緒にお祈りをし、一緒に食事をしてイエス・キリストを信じる気持ちを皆で確かめ合う会を持ちました。

教会では今も日曜日の朝、礼拝と呼ばれる集会をしていますが、これは弟子たちが始めた日曜の集会を、2000年もの間ずっと今まで続けているものです。そしてその礼拝の行われる場を「教会」と呼ぶようになりました。

今の世の中は大変忙しく、週末には疲れてゆっくりしたいとか、羽を伸ばして遊びに行きたいとも思いますが、私たちクリスチャンはそれでも日曜の朝、教会の礼拝に行きます。毎週行っても別に教会から何かご褒美が出るわけではありません。何故行くかというと、神さまが私たちを礼拝に呼んで下さっている、招いて下さっていると信じているからです。教会には色々な人が来ます。悩みがあって初めて来てみた人もいます。そういう人も、自分で来たと思うかもしれませんが、実は神さまが招いて下さっていると信じられるのです。

何に招いて下さっているかというと、それは礼拝という名前の祝宴のようなものです。昔、弟子たちは日曜に集まり一緒に食事をしました。イエスと共にした食事を想い起こしながら。現在、私たちは礼拝の中で食事こそしませんが、みんなで一緒に、まさに食事を頂くように聖書のことば(「み言葉」といいますが)を聞き、神さまの愛をしっかり感じ・受け取っています。それによって、みんなで心で神さまに会うでのす。それで心が満たされると、歌なども歌いたくなるので、讃美歌も歌います。お祈りも捧げます。そして満たされて教会から外に送り出されていくというわけです。これが、礼拝であり、教会です。  

だから教会は聖書を学習する所でもなければ、単に神さまを拝みに行く所でもありません。神さまに招かれて、みんなで神さまに会い、神さまからの愛を受け取りに行く場なのです。

5.クリスチャンになったらどんな人生になるのか。

クリスチャンは、日曜には朝、神さまの招きを感じながら教会の礼拝に行くと言いました。あと、家でも食事の前や寝る前にはお祈りをしたり、或いは家で聖書を開くこともあるでしょう。でも、その結果、クリスチャンの人生はどう変わるのでしょうか。

イエス・キリストを信じてクリスチャンになっても病気になる時はなりますし、人生のさまざまな苦労や悲しみはあるでしょう。しかし、そういう中でも、クリスチャンは深い恐れや悩み、あるいは絶望にまでは至らないで済んでいます。神さまの愛を信じているからです。そして、クリスチャンは生活の中の出来事について、それが小さな幸せでも少し辛いことでも、全て神さまに感謝する気持ちになれるのです。また、電車の中でもどこでも、まわりにいる人が私たちと同じく神さまが創られ愛されている命であると信じられれば、人が少し違って見えてくるでしょう。嫌いなタイプだなと思う人でも、好きにはならなくても大切な命であるとは思えるでしょう。全てのことがこのように少しずつ違って見えてくる。これがクリスチャンになることの意味だと思います。

そして、最後にあと一つ。人生の終わりにどこに帰っていくのかについても、はっきり確信していられると思います。そう、神さまの所に帰っていくと確信していられるのです。

もう少し、こういうことに触れたいとお思いでしたら、是非私たちの教会、あるいはお近くの教会に行ってみて下さい。